はじめに
中国に於ける文学作品の受容者層が宋代以降飛躍的に増大したことについてはつとに多くの指摘があるが、その多くは説唱を通しての受容についての研究であり、文字テキストとしての受容については多くが語られていない。宋代以降の営利目的の坊刻本の増大は中国に於ける書籍流通機構の確立を意味している。これらの書籍流通機構については出版書肆の研究がかなり有効な手段と考えられ、今日幾人かの研究者の手によって個別の出版書肆についてはその姿が解明されつつあるが、その全体としての姿は明確なものとはなっていない。特に出版と販売との関係については殆ど何も判ってはいない段階である。
ただこれらの研究によって漠として伺い知れるのは、出版された書籍を買い得たものは極めて限定され、いわゆる民衆とか庶民とかいった者が直接の受容者層を形成していたわけではなかったということである。
では、中国に於いて文字テキストとしての文学作品の受容者層が拡大し民衆や庶民を含むようになったのはいつからか、裏返せば文学作品の作者が作品の読者の中に民衆や庶民を意識し始めたのはいつからなのかという問題が生じる。阿片戦争以降あるいは文学革命以降をいとも簡単に近代文学と名づけ、そこには民衆や庶民をも含んだ近代読者がいたと無条件に信じているかのように見える多くの近代文学研究者の研究姿勢には疑問を感じずにはいられない。
これらの問題を解明して行くためには読者の側からのアプローチが必要不可欠である。如何なる人々が主体的な読者としてそれらの作品に接したのかをまず明らかにしていかなければならない。
営利出版の登場は出版書肆を通して作者が読者の嗜好を意識せざるをえない状況を作り上げた。明末凌濛初が編纂し尚友堂が刊行した『拍案驚奇』の序文はその間の事情を明らかに示している。
本屋はその本(「三言」)が世に大変な売行きを示しているのを見て、私が他にまだ知られていないその種の本を持っているのではないかと思い、出版してそれと張り合いたいと目論でいた。ところが「三言」に採録されなかったものが有るには有るが皆残り粕であり、取り上げるに足りない駄作ばかりだ。そこで古今の雑事で耳目を新にし話の種になるようなものを取り上げ加筆潤色しある程度の分量を得た。(肆中人見其行世頗捷、意余當別有秘本、圖出而衡之。不知一二遺音、皆其溝中之斷、蕪略不足陳已。因取古今來雜碎事、可新聽睹、佐談諧者、演而暢之、得若干卷。)
この序文を見る限り凌濛初が出版書肆の意を受けて読者の嗜好にあった作品を世に送り出そうとしていたのは明らかである。
写本による流通から版本による流通、営利出版の登場は作者と読者の関係を一変させた。写本の時代にあっては作品は多く特定の読者を相手に書かれる。作品が流通する範囲は仲間内でありその仲間内の誰かの手を経て他のグループへと伝播される。もちろん書店はあるが、その本を所蔵する人物から借りて必要ならば書き写すというのが一般的な書物の流れである。享受者層は書物を予め持つ者と、借りることのできる者とに限定される。そこでは不特定の読者は存在しない。営利出版の登場はこの閉ざされた関係を解体させた。金銭さえ有れば読者は自由に作品を享受することができるようになり、作品はそれらの読者を目指して量産されるようになる。とはいえいわゆる庶民・民衆と言った人々は依然文盲の状態にあり、書籍の価格も必ずしも安価ではなく更に出版部数も多くて千部を越えないという条件下では購買者層は広がりを見せたとはいえ限界がある。
清末の活字印刷そして新聞雑誌といった新たなメディアの登場はこの限界を一気に押し広げた。新聞雑誌を含め書籍が大量に比較的安くそして頻繁に売られるようになり、以前の条件は一変する。書籍の流通量は以前とは較べようもないほど増大し読者もそれに合わせて増えている。しかしここでも多くの庶民・民衆は依然文盲状態であり、書籍の価格も彼らにとっては必ずしも安くはない。文学作品受容の中心的媒体はやはり説唱にあった思われる。そしてまた書物としての受容に大きな役割を果たしたものとして貸本の存在を忘れることはできない。
著者の見るところでは清代以降民国まで小説・唱本といった通俗的な書物の流通はかなりの部分が貸本によって占められており、特に低所得者層にとってはそれがほとんど唯一の講読手段であったようだ。通俗的な書物の読者については貸本屋の存在を抜きにしては語れない。これは日本の江戸から明治、ヨーロッパの一八世紀前後の状況と極めて類似している。貸本による受容は書籍の廉価化により衰退していくが、近代文学の隆盛を迎えるに当たって、それを支えるべき読者層の拡大に果たした役割は無視し得ない。
ところが中国における貸本については全くと言っていいほど研究されていない。以下先行研究を挙げるが、研究と言うよりもその存在に触れただけのものしかない。
一、王利器『元明清三代禁毀小説戯曲史料』(作家出版 一九五八・上海古籍出版社 一九八一 増訂本)
元明清の三代に於ける小説戯曲類の禁毀に関する史料を中央法令・地方法令・社会輿論・因果応報の四類に分けて集めたもの。中央法令・地方法令に貸本に関する史料が幾つか見られる。また「前言」では『學政全書』卷七「書坊禁例」と『生涯百詠』卷一「租書」を引用して貸本形式による書籍流通について言及している。「増訂本」で加えられた『勸燬淫書徴信録』には貸本に関する史料が多くみられる。本稿引用の諸史料はこれによるところが多い。
二、李家瑞「清代饅頭鋪租賃唱本的概況」(王秋桂編『李家瑞先生通俗文学論集』台湾学生書局 一九八七・『 中国出版史料補編』中華書局 一九五七)
光緒年間まで北京の饅頭鋪が副業として営んでいた貸本業について貸し出されていた唱本鈔本に基づいて紹介している。そこには鈔本の封面に押された貸本屋の広告印章を二例収録すると共に、貸本屋の屋号・所在地・貸本の種類・年代の一覧表を作成している。貸本屋経営の具体的な姿を探る上で貴重な史料となっている。
三、傅惜華「清季北京租賃唱本 - 大本書封面」(『中国近代出版史料二編』中華書局 一九五四)
二と同じく北京の饅頭鋪で貸し出されていた貸本の封面の写真とその解説。
四、磯部彰「清代の『西遊記』と民間芸能 - 『西遊記』表現形式の研究(二)」(『富山大学人文学部紀要 十三』一九八八)
一部で上記の史料を引用する形で清代に於ける貸本の存在に触れている。内容は上記一から三の範囲を出ない。しかし小説流布に貸本の果たした役割を重視しようとする姿勢は新鮮である。
この他にも阿英、鄭振鐸、關徳棟等にそれぞれ貸本についての言及があるが、いずれも表層的なものに過ぎない。
ところで貸本史料としては以下のものが想定できる。
一、賃し出された貸本そのもの
二、貸本屋の蔵書目録等貸し出す側の記録
三、読者の記録
四、文学作品や風俗史料の中に残されたもの
五、禁書史料など公文書類の中に残されたもの
これらの中で最も具体的な史料となる一の現存が極一部の例外を除いて確認できないことと二がまったく発見されていないことが貸本研究に於いて最大の障害となっているが、これらは清代という比較的近い時代のものなので今後中国各地の図書館や個人の蔵書が整理されていく過程で発見される可能性は大きい。
現時点では三・四・五を中心に貸本・貸本屋像を形成して行かなければならないわけだが、これも史料の少なさからかなりの困難がある。
本稿ではまず五の禁書史料に的を絞り、貸本について触れられているものを集め、その歴史的な流れを把握することから始める。ついで以下は次稿となるが三・四の読者の記録や風俗史料などから貸本・貸本屋像に迫ってみたい。
おわりに
以上禁令中の貸本史料を時代を追ってみてきたが、禁令に現れる貸本屋についての最初の記録は、どこまで貸本そのものを意識していたかは曖昧だが、康煕二十六年の劉楷の上奏文の中の「出賃小説」の語である。一応貸本の存在がこの時点で確認されるわけだが、実際にはこれよりかなり前から存在していたのではないかと思われる。
書籍の制作・出版そのものの禁止から販売・購読をも含めた書籍流通機構へと禁止の対象が広がっていく中で、乾隆三年に貸本も禁令の対象に加えられる。逆説的に言えば、この時点で貸本・貸本屋は正式に認知されたといえる。これ以後貸本・貸本屋は政府の規制をよそに隆盛の一途をたどる。
道光年間の江蘇・浙江両省での禁令には、「賃書鋪」「税書鋪(戸)」といった貸本屋を表す熟語らしきものが現れているが、特定の商売を表す言葉が作られるということはその商売の流行を伺わせるに足る。
本稿では以上貸本・貸本屋の清代に於ける隆盛への足取りのおおよそを掴むことができた。しかしその経営の実際についてはこれらの史料から読み取れることは残念ながらきわめて少ない。興味深いのは[康煕二十六年]に触れられている貸本の目録である。目録を使っての貸本となればかなりの規模が予想される。更に[道光二十四年]に記された唱本と貸本との関わりも貸本屋の顧客筋を考える上で重要である。貸本屋で供されたものの中心を唱本が占めていたようで、現存する貸本そのものもほとんどが唱本に限られている。これら貸本屋の実際については史料に乏しく掴みづらいが、稿を改めて整理してみたい。
原載:『山下龍二教授退官記念 中國學論集』(研文社 一九九〇)