機械翻訳(AI翻訳)時代の外国語教育

筆者はかねてより、機械翻訳の時代における異言語間のコミュニケーションは、以下の4形態が並立する形をとることを予測していた。

(1) 機械翻訳のみによるコミュニケーション
(2) 機械翻訳の不備を外国語知識で補う形でのコミュニケーション
(3) 外国語能力の不備を機械翻訳で補う形でのコミュニケーション
(4) 外国語能力のみによるコミュニケーション

(1)(2)は機械翻訳によるコミュニケーション、(3)(4)は外国語能力によるコミュニケーションと大きく二つに分けることができる。(1)が機械翻訳の能力の不足により不可能であれば、外国語能力あるいは知識で補わざるを得ない。(2)は(1)に到達するまでの過渡的段階とみなすことができる。また、(4)が外国語能力の不足により不可能であれば、機械翻訳あるいはその他の道具で補わざるを得ない。これまでは辞書等がその役割を果たしてきた。

「グローバル人材育成戦略」の言うところの「語学力・コミュニケーション能力」が単に日本語以外の言語を使う人との間でコミュニケーションを行うための言語運用能力であるならば、(1)(2)でそれを実現しても全く問題はない。「グローバルコミュニケーション計画2025」が計画通りに進めば、機械翻訳を介することでほぼ実現できてしまうことになる。求められるのはどのように機械翻訳を使うかという知識と技能である。そこには対象の言語を使用する人々の社会や文化を理解した上で、こちらの意図が十全に伝わるように、こちらが発言する日本語自体を組み立てていく力や、機械翻訳を通して受け取った日本語から相手の意図を十全に理解するための力も含まれる。機械翻訳利用において一般に「前編集」「後編集」と言われているものに相当する作業が意識して行われている段階が(2)、無意識的に行われる段階が(1)と言うこともできる。

外国語能力を高めることによって、最終的には自身の外国語能力以外のサポートなしにコミュニケーションできる(4)の状態を目指すものの、機械翻訳の辞書機能を利用したり、機械翻訳で訳出された日本語字幕を参考にしたりしながら、外国語によりコミュニケーションを行う段階が(3)ということになる。外国語(相手の言語)によりコミュニケーションを行う以上、対象の言語を使用する人々の社会や文化、思考や感情の回路を理解するのは不可欠である。

異言語間コミュニケーションの手段はこれまでは外国語の学習によって培われてきた。しかし、新たに機械翻訳がそれに代わるものとして、実用性を十分に持って登場してきた。外国語運用能力はいずれ異言語間コミュニケーションの手段の主役の座を機械翻訳に明け渡すことになるだろう。私たちは目的地に早く着くための方法が自分の足を使って歩く/走ることしかなかった時代には、目的地まで速く着くためには、足を鍛えるしかなかった。馬に乗ることを覚えると、今度は、上手く馬に乗れることが重要であり、足の速さは重要ではなくなった。自動車が発明されると、自動車を上手く運転できることが重要になり、馬に上手く乗れるかどうかは重要ではなくなった。今では走ることも、馬に乗ることも健康のためや趣味として行われるものとなっている。ただ、馬の時代であっても、馬に乗って移動しても、最後は自分の足で歩かなければ最終的な目的地(例えば店の中とか自分の部屋の中)にはたどり着けない。自動車の時代になっても、やはり最後は自分の足で歩かなければならない。同様に、機械翻訳の時代になっても、最後は人間の力で調整しなければならないことは言うまでもない。また、何らかの事情で機械翻訳という道具を利用できない状況に立たされる場合もある。その時にはこれまで同様に外国語能力によるコミュニケーションが必要になる。微妙なニュアンスまで完璧なコミュニケーションを取りたいのであれば、当面の間はやはり人による通訳が必要になるだろう。しかし、それは「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」や「グローバル人材育成戦略」、そして現代の多くの人が強迫観念的に持っている外国語(英語)能力への執着とは全く異なるものであるはずだ。

実用性という桎梏から解き放された機械翻訳時代の外国語教育は、ずっと自由で伸びやかなものになるに違いない。外国語を学ぶことによって、機械翻訳を介することなく、他の言語を話している人と直接つながることことができる。たとえ拙くても、それが不正確な物であっても、大きな喜びを感じるだろう。

何よりも、外国語を学ぶことは、自分自身が日常的にものごとを認識したり、感じたり、理解したりしている回路とは別の回路で感じ、考えることを経験することでもある。日本語を通して見える世界と英語や中国語を通して見える世界は微妙に異なっている。そしてその異なりが社会的、文化的な多様性をもたらしている。この差異を自ら体験すること、そしてその差異を意識しながら他者とつながろうとすることは、社会的、文化的背景の相違や価値観の違いを乗り越えて、多くの人とともに新たな世界を作り出していこうという姿勢にもつながるものである。

異言語間コミュニケーションが機械翻訳にゆだねられた時、人々は自分自身の言語以外の言語を学ぶ必要がなくなる。強い言語が共通言語として他の言語を支配するといったことも解消される。しかしここには大きな落とし穴がある。自分自身の言語以外の言語を学ばないと、自分自身が日常的にものごとを認識したり、感じたり、理解したりしている回路とは別の回路で感じ、考えることを経験する機会が失われてしまうことになる。全てを自らの回路で、自らの文脈に落とし込んで理解することは、他者の排除につながりかねない。

機械翻訳の時代における外国語を学ぶ意義は、(1)外国語を使って他言語話者と直接コミュニケーションを取ることそのものの楽しさ、喜びを味わうことと、(2)自分自身とは異なる言語で感じ、考えることを通して、差異の存在を体験し、差異を乗り越えて共に生きていこうという意識を育てることの二点にあると考える。

「モバイル端末・インターネット・機械翻訳-異言語間コミュニケーション手段の変容と外国語教育-」(『中国21』 58 31-47 2023年3月)一部抜粋

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