日本人中国語学習者のたどる道―漢字という落とし穴―中国語教育というものに携わって長くなりますが、中国語を勉強する人たちの非常に強い選択の動機として、「漢字使っているから簡単そうだな」というものがあります。
中国語には、HSKという試験があります。これは英語でいうとTOFLEにあたります。中級の6級を取らないと中国の大学の授業にはついていけない、というレベルの試験です。北京の清華大学に留学している学生のHSKの成績を分析したものがあります(沈燕2006)。
韓国からの学生、日本からの学生のリスニング問題の平均等級は、韓国5.5、日本4.1です。それに対してリーディング問題の平均等級は、韓国6.7、日本6.1となっています。リスニングとリーディングのレベルが等しい人は、韓国21.4%、日本7.1%、リスニングの力がリーディングの力よりも高い人は韓国10%、日本5%しかいません。これは留学している人のデータです。中国語をシャワーのように浴びているにもかかわらずこの結果です。欧米からの留学生では、逆の結果となっています。
さて、中国語には音声文字としてピンインというものがあります。発音記号のようなものですけれども、発音記号という位置づけではなくて、書き言葉としても場合によっては通用するという発想でつくられているものです。
ピンインと漢字についての興味深い実験を紹介します(黄利恵子2003)。中国語の単語を二つのグループに分けて記憶させました。「ピンイン+意味」を記した紙で記憶させたグループと、「ピンイン+中国語の漢字+意味」を記した紙で記憶させたグループ。どちらも記憶の過程で音声も聴かせています。2グループの違いはどこかというと、漢字があるかないかだけです。その2グループについて、後で聞き取りの試験をしました。
その結果、提示された中国語の単語が日本語と異義同形のものは、「ピンイン+中国語の漢字+意味」の方が「ピンイン+意味」よりも正解率が高く、同義同形のものは逆に「ピンイン+中国語の漢字+意味」の方が「ピンイン+意味」よりも正解率が低くなりました。同義同形の単語は、漢字を提示することにより彼らの音声面での記憶が阻害されることになったのです。
中国語で書かれている文字(漢字)は、日本語と同じであったり、日本語と似ていたりします。つまり、母語としての日本語を習得する過程で形づくられた音声と文字の関係、意味の関係というものを完全に引きずってしまっており、中国語の新しい単語を覚えるということを阻害しているわけです。漢字と日本語の音声、意味とのリンクはそれほどまでに強く張られ続けられているということですね。このリンクを切り離すのはよほど強い意志をもたないとできません。日本語を通しての意味の確認が容易なため、無意識にそれに依存してしまうのです。
文字、音声、概念がしっかりとリンクしているのが言語の世界、中国語の世界です。ところが日本人学習者はそのリンクがうまく作れない。そこには更にピンインの問題があります。実は、ピンインの呪縛、これから逃れられないというのも日本の中国語学習者が陥るひとつの落とし穴です。中国語文字(漢字)→中国語の音声→意味というふうにつながるのではなくて、中国語文字(漢字)→中国語の発音表記(ピンイン)→意味とリンクしてしまうことが多い。これは日本の中国語学習者の特徴の一つです。
これはなぜかというと、当然授業が悪いのですが、音声化せずに理解してしまうからです。ピンインを覚えるということで、発音を覚えたというような感覚を持ってしまうということですね。ピンインが音声化されずに文字化されて、そのまま意味に結びついてしまう、あるいは「ピンイン→中国語の漢字→日本語の漢字→日本語の発音→日本語の意味」のルートで意味を確認してしまう。その結果、「中国語の発音→中国語の意味」へのルートができないということになっているんですね。
では、どうしたらいいのでしょうか。まず、ピンインに過剰な役割を担わせないということです。ピンインというものはあくまで、限られた役割を担う手段としか考えてはいけません。それからもうひとつは、中国語文字(漢字)から中国語音声、概念を定着させるための学習を、「意識的」に行うということです。意識的にしないと逃げてしまいます。意識的に、常に、音にリンクを張る。常に音を聞くということを、あえて、やらなければなりません。漢字情報を取り込むときは、必ず同時に音声情報を取り込む。これを絶対欠かせてはいけません。
中上級のレベルになってくると、自分でインターネットで中国語の情報を読むという機会が増えてきます。では、それを常に音声化したらどうかと考えています。出番となるのは、最近非常に進歩した合成音声ソフトです。中国語の読み上げソフトなのですが、若干問題はあるものの、リスニングの教材として十分使えるレベルです。フリーのソフトはレベルが落ちるため、若干の投資は必要かもしれません。
中国語の場合には漢字・ピンインというものが、どうしても落とし穴になります。そのことを学習者が何らかのかたちで意識する。あるいは教員が強制するというかたちで、そこの呪縛にとらわれないようにしなくてはいけません。では具体的にどうすればいいのか。さらに良い方法があるはずですので、それについては今後、チームを組んで考えていきたいと思っています。
原載:教育総合研究所所報 12 2010年6月