今、この原稿をパソコンで書いている。ついさっきまでは、大陸、台湾、香港のホームページを眺めていた。この原稿を書き終えたら、中国の友人に電子メールを送り、その後は来週を行う研究発表の資料作りをしなければ・・・。

中国語を学び始めた25年前、中国を教え始めた15年前には想像もしなかった世界に身を置いている。この小さな机に向かっている間に、大陸、台湾、香港をひとめぐりし、そしてまた日本に戻ってくることができる。情報を集めてくるだけでなく、掲示板への書き込みやチャットへの参加で中国語による対話や喧嘩も可能だし、 思い切って中国語のホームページを作れば、自分の方から中国語による発信もできる。

また、従来型のメディアでは、CS放送(有料だが)で24時間中国のテレビを放送を見ることができるし、何よりも街角で中国語に耳にするようになった。さら 9月から中国(北京市、上海市、広東省)からの 団体観光旅行が解禁されるそうだ。今では日常生活のすぐ隣に中国語の世界が広がっている。

では実際の中国語教育は、特にいわゆる第二外国語として学んでいる学生たちの学習が、これまで述べてきたような環境に結びつく形で行われているだろうか。学習が教室内に閉ざされたものになっていないか、あるいは「単位取得」で完結しましてしまっていないか。

例えば、最後までピンイン付き分かち書き形式の中級講読教科書、形式だけは会話スタイルの隠れ講読教科書、音声素材の付いてない会話教科書(別売カセットテープなんて学生が買うわけはないし、無断ダビングは違法行為だ)を目にすると、私たちは一体何を目的に中国語を教え、学生たちは私たちとの学習から何を得ているのか、ということを考えてしまう。

教室での講読学習が最後までピンイン付 分かち書きの文章を対象としたものだったら、分かち書きのない実際の中国語の文章を読むことは不可能だし、辞書引きもできない。仮に、中国語で書かれたものに接する機会があったとしても読む気も起きまい。音声素材のない会話教科書では、週に一度か二度の教室学習で教員の発音を聞けても、それっぽっちの時間中国語を聞いたところで、中国語が聴き取れるようになるとは、教える側も学ぶ側も誰も信じてはいまい。

これは、ピンイン付き分かち書きで学習が終了する教科書や会話スタイル講読教科書(別売カセットテープあり)を作ってきた自らの反省である。

そこで小文の表題「出口のある中国語教育」つまり中国語の学習を教室内に閉ざされたものではなく、何らかの形で実生活につながる形で再構築できないか、ということをここ数年考えている。

具体策の一つとして、昨年からインターネットを利用した「講読」授業を試みている。方法は簡単だ。とにかく中国語ホームページを見てもらう。中国語入力ソフト付属の日中・中日辞典を参照しながら、とにかく興味に任せて読んでもらう。それだけだ。教員の方は 学生たちの作業を見守り、質問があれば答え、苦しんでいたら手助けし、とんでもない間違いを犯していたら注意を促す。授業の終わりにはその時間の成果を報告してもらう。周恩来の一生を追っかける学生もいれば、アイドルに血道をあげる学生もいる。仮想チベット旅行を企てる者もいれば日本の小説の中国語訳を淡々と呼んでいる学生もいる。こちらは、提出された成果報告に一つ一つ コメントを付け、誤訳箇所には朱を入れ、次の授業時に返却する。そして、学生たちはコメント等を参考に再びホームページ探索を始める。各学期の最後には探索した内容をまとめたレポートを提出してもらう。これが試験の代わりだ。そのレポートはクラス全員に公開される。

この授業を通じて、学生たちは中国語ホームページを読んでいく基礎的な技術と、「中国語で書かれたものにも面白いものがありそうだ」「けっこう自分で読めるぞ」「また読んでみようかな」という気分だけは獲得してもらいたようだ。

とにかく様々な試みを通じて、何とか「出口のある中国語教育」を目指しているのだが、ひょっとしたらとんでもない迷路に入り込んでしまったかも知れない。

原載:トンシュエ第20号(2000年9月)