私たちの日常は一瞬で大きく変わってしまいます。当たり前のことがごく簡単に当たり前でなくなってしまいます。この半年間の新型コロナウイルスの流行によって私たちを取り巻く社会は急激に変化しました。わずかの間で世界中のこれほど多くの人々の日常がガラッと変わってしまうという経験は、第二次世界大戦以来のことかもしれません。
もちろん、国や地域といった単位で見れば、地震や水害などにより一夜にしてこれまでの日常が失われてしまうこともあります。2011年の東日本大震災もそうでしたし、今月の豪雨でも九州を中心に多くの人々の日常が失われました。
日常というのはあまりにも当たり前のことなので、普段はその価値を感じたり、意味を考えたりすることはあまりありません。毎日学校に通うこと、教室で友だちと話をしたりじゃれあったりすること、部活にいそしむこと、休みの日に外に遊びに行くこと、こういったことの価値や意味について、ほとんどの人は考えたこともなかったでしょう。
3月から5月末までの3か月間、ほんの数回あった登校日を除き、学校は児童・生徒の皆さんの声が全く聞こえない状態が続きました。学校というのは、児童・生徒の姿があり、声が聞こえる、時にはうるさいほどの声が聞こえるのが普通なので、妙に静まり返った不思議な空間でした。そのような空間にいると否応なしに、学校というものの意味を考えさせられます。
5月の連休明けから遠隔授業をスタートしました。試行錯誤の連続で、いろいろとトラブルもありましたが、皆さんの協力により、なんとか「ホームルーム」と「授業」を始めることができました。学校として日常に戻るための第一歩でした。6月からは分散登校、短縮授業を始め、少しずつ学校にいる時間を増やしてきました。しかし完全には元の状態には戻っていません。これは夏休みが終わった後も続きます。
夏休みが終わった後は、学校への登校や「ホームルーム」「授業」などクラス単位の活動は、新型コロナウイルス対応を行いながら従来に近い形に戻す予定ですが、全校生徒が一斉に参加する体育祭や文化祭はこれまでとは異なる形で開催することになります。体育祭とは何なのか、文化祭とは何なのか、その価値や意味についてあらためて考えてもらえればと思います。その上で、皆さん方自身にとって価値や意味のある体育祭、文化祭を作り上げてくれることを期待しています。
日常が揺らいだ後は、大きな流れとしてはかつての日常に戻っていきます。短時間で戻ることもあれば長い時間がかかることもあります。東日本大震災で揺らいだ日常は9年経った今も完全には元に戻っていません。まだまだ時間が必要です。たぶん完全には戻ることはなく、以前の日常とは少し違った日常になるのだと思います。今回の新型コロナウイルスの流行が今後どのような推移をみせるのか現時点では分かりませんが、短期の流行で終わったとしても元に戻るのには一定の時間がかかります。流行が拡大し長期化した場合には、更に時間がかかります。新しい日常が生まれる可能性もあります。
学校の日常も大きく揺らぎました。今でも毎日登校しているわけではありません。当然こういった問いが出てきます。学校って本当に毎日行かないといけないところなのか?学校っていったい何をしに行くところなのか?学校に行かないとできないことは何なのか?そもそも学校って必要なの?
将来は、学校での授業と遠隔授業が並行してあり、学校には週の半分ぐらい行き、学校でないとできないことをする。それ以外の日は自宅で、学校でなくてもできることをするという新たな日常が生まれているかもしれません。今後のリモートワークの進展度合いとも密接に関係します。リモートワークは、会社でないとできないことは何か、会社でなくてもできることは何かを区分けすることから始まります。
これから始まる夏休み。休校によって失われてしまった授業時間を確保するために、夏休みは例年より短くなりました。夏休みも揺らいでいます。冷房のなかった頃は夏に教室で勉強するのは大変でしたが、冷房の効いた教室なら夏に授業をしても問題ないですよね。本校では体育館も年次進行で冷房を設置中です。これからも長い夏休みは本当に必要なのか。夏休みの価値や意味はどこにあるのか。すべてのことを一度問い直してみる。そんな機会を与えられたと考えることもできます。夏休み明けにお会いしましょう。
原載:『早実通信』203号(2000年7月)